KORLENS

Seochon Village

45 Pirundae-ro, Jongno-gu, Seoul (Nuha-dong)

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KORLENS キュレーション
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Seochon Village is the name given to the area to the west of Gyeongbokgung Palace.

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It is a historic village, home to old shops and hanok buildings that have stood the test of time.

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가족

Korean traditions and contemporary sensibilities coexist within Seochon Village’s maze-like alleyways, creating th

Solo
솔로

One can find shops, guesthouses, cafés, and restaurants in the village.

場所の紹介

Seochon Village is the name given to the area to the west of Gyeongbokgung Palace. It is a historic village, home to old shops and hanok buildings that have stood the test of time. Korean traditions and contemporary sensibilities coexist within Seochon Village’s maze-like alleyways, creating the unique ambience that makes the district so beloved. One can find shops, guesthouses, cafés, and restaurants in the village.

位置

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オーディオガイド

韓国観光公社 オディ(Odii)による音声解説
1. 光化門(クァンファムン) 경복궁 광화문
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台本

光化門(クァンファムン) [金内官(キムネグァン)] 王の大きな徳が国を光らせる光化門(クァンファムン)へようこそ。景福宮(キョンボックン)の南の正門である光化門(クァンファムン)は、朝鮮時代の王室を象徴する役割を果たす門です。朝鮮時代には門を境に内側は景福宮(キョンボックン)、外側は「六曹(ユクジョ)通り」と呼ばれる漢城府(ハンソンブ、現在のソウル市庁の役割をしていた部署)のエリアと国民が生活する鐘路(チョンノ)通りがありました。大勢の人々が往来する光化門(クァンファムン)は、楼閣の上に鐘と太鼓を吊り下げて、時刻を知らせたり通信の役割も果たしました。 [金尚宮(キムサングン)] 「門の前にある一対のへチ(ヘテ)はまるで、その精悍な目つきで『私は正義を護る!』と語っているようですね」 [金内官(キムネグァン)] 「そうでしょう?たぶんこのへチには、六曹(ユクジョ)通りの役人や王が正しい政治を行うように見守っている…という意味が込められているので、そんな感じを受けるのでしょう」 [金尚宮(キムサングン)] 「ヘチが両脇に立ってるなんて、心強いですね!わあ、金内官(キムネグァン)!私、この門は初めて通りますよ!天井に鳳凰が描かれているんですね!」 [金内官(キムネグァン)] 「本当に素晴らしいですね!本来光化門(クァンファムン)は、中国から来た使臣や王族の公的なお出ましの時に利用する門なのです。私も横の門はよく通りましたが、真ん中の門から入るのは初めてで、何だか不思議な気分です。参考までに、左の門は『洛亀負書(ナックィブソ)』と言って亀が描かれているし、右の門は『河馬負書(ハマブソ)』と言って馬が描かれています」 [金尚宮(キムサングン)] 「光化門(クァンファムン)が、2010年にここに戻ってくるまで、どんなに苦労したことか。立派に装うのが当然です!光化門(クァンファムン)は、日本による植民地時代に日本が朝鮮総督府の建物を建設したため、東門である建春門(コンチュンムン)の北側に移されてしまいました。その後、韓国戦争の時に爆撃で破壊され、1968年に復元されました。そして1990年代に中央庁と呼ばれていた朝鮮総督府の建物が取り壊された後、やっと本来あった場所に戻って来たのです」 [金内官(キムネグァン)] 「それで復元する際にそれぞれの隅棟に7つの雑像を置き、背後の北岳山(プガクサン)の尾根と調和をなすよう美的要素も十分に高めました!昔も今も、光化門(クァンファムン)がここにあるというだけで胸がいっぱいになるのは、韓国人なら誰でも感じると思います!」 [金尚宮(キムサングン)] 「あら、珍しく同感です。それではさっそく入場券を買って、本格的に宮中に入りましょう!」

ホン・ゴニク(洪建翊)家屋
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台本

ホン・ゴニク(洪建翊)家屋 このガイドは、キム・ヨンハ(金英夏)さんの声で録音されました。 朝鮮時代の中間階級、中人の居住地だった西村には、様々な時代を代表する韓屋が集まっています。中でも「ホン・ゴニク(洪建翊)家屋」と呼ばれるこの家は、1930年代に建てられた近代の韓屋です。ホン・ゴニク(洪建翊)氏については、残された資料がほとんどありませんが、以前にあった家を取り壊し、今の家を建てた人で、彼の名が付いています。 ホン・ゴニク(洪建翊)氏が暮らす前、ここでコ・ヨンジュ(高永周)という訳官とその家族が住んでいたそうです。コ・ヨンジュ(高永周)氏の家門は父、兄弟、甥の3代にわたって訳官を務めました。「訳官」とは、今でいうと通訳、外交官のような役割を果たしましたが、この職業は、外国人に直接会って交流することができ、多様な文化や新しい情報を素早く得ることができました。そのため中人という身分にもかかわらず、富と名誉を得ることができる仕事でした。 コ・ヨンジュ(高永周)氏は中国語(漢学)を学んで活動した訳官でした。訳官としてもっと有名なのは、彼の兄弟です。二番目の弟であるコ・ヨンヒ(高永喜)氏は日本語訳官として、1876年江華島条約(朝日修好条規)以降、日本に派遣された修信使の一員でした。末っ子のコ・ヨンチョル(高永喆)氏は、中国で英語を学んだ後、米国に報聘使(使節団)として渡って行きました。コ・ヨンジュ(高永周)氏は1910年代にこの土地を売却し、時間が経過してホン・ゴニク(洪建翊)氏が購入するようになりました。ホン・ゴニク(洪建翊)氏が家を建てた当時は今より規模が大きかったのですが、今では半分だけが残されています。 ホン・ゴニク(洪建翊)家屋の一覚門から入ると、家主の嗜好やセンスが引き立ちます。門屋とサランチェは整えられた雰囲気ですが、母屋は、よりリラックスできる空間として感じられます。母屋の開放的な板の間の下部には、太極旗にも用いられている八卦の形の穴があります。この穴は、通気性を高めるという機能的な側面も持っています。近代の韓屋らしく、戸や窓がガラスでできていますが、このようなガラスは、その家の富を表す方法の一つでした。 母屋の左へ進むと、離れ屋と庭園に行く小さな扉があります。入ってすぐ大きな井戸が見えますが、当時、個人宅に井戸がつくれるのは大富豪だけだったそうです。離れ屋は小さな図書館として使用されており、誰でも無料で利用することができます。読みたい本を選んで座布団に座ると、庭園の風景も見渡すことができ、読書の時間を楽しむこともできます。 この家の全景を見たいときは、庭園の頂に登ってみましょう。離れ屋、母屋、サランチェ、門屋の屋根が続いて現在の西村建物と調和する風景は、何とも言えない景色です。庭のベンチに座って、この美しい風景をゆったりと楽しんでみてください。

イ・サン(李箱)の家
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台本

イ・サン(李箱)の家 このガイドは、キム・ヨンハ(金英夏)さんの声で録音されました。 日本による植民地時代、独特の作品世界で名高かった文学者イ・サン(李箱)氏は、子どもの頃、養子縁組で伯父の家がある通仁洞でずっと育ちます。彼の伯父の家は、本来巨大な韓屋でしたが、後にイ・サン(李箱)氏が譲り受け、事業に失敗すると、家を売らざるをえなくなります。売却された家は、5つの土地に分割され、主が変わりつづけて現在に至っています。現在、イ・サン(李箱)の家がある場所は、その5つに分割された土地の一つです。 イ・サン(李箱)氏の本名はキム・ヘギョン(金海卿)、3歳の時に養子としてこの家にきました。彼の伯父は息子がいなかったので彼を養子として迎え入れましたが、再婚した伯母もイ・サン(李箱)には愛情を見せませんでした。彼は子どもの頃から絵に特に才能を見せましたが、伯父は安定的な職業の建築技師の道を無理やり進ませました。結局イ・サン(李箱)氏は、京城高等工業学校建築科に進学し、建築技師となります。 朝鮮総督府で建築技師として働くようになったイ・サン(李箱)氏は、ペンネームを使って物書きになりますが、主に自分のアイデンティティーと時代の混乱について作品として表現しています。彼のペンネームである「イ・サン(李箱)」もハングルで読むと様々な意味を持っていて、天才的な才能を持つ人の挫折と希望が込められているように見えます。 我々には難解な文学の世界と苦悩のイメージが刻まれていますが、自分の本当の家族には親孝行の息子であり、心強い兄だったそうです。妹の証言によると、「兄は母にいつも丁寧で、何がしてあげたくてどうしようもないという感じだった」といいます。そしてイ・サン(李箱)氏は妹を「私の唯一の理解者」と呼び、大切にしたそうです。 この家は、幼年時代のイ・サン(李箱)氏が抱いていたはずの影と希望が漂う空間です。展示室のもっとも内側、暗い空間で、彼の一生を描いたちょっとした物語に触れることができます。階段の先にある重い引き戸を開けると、イ・サン(李箱)の家の庭と屋根が見えます。自由への扉を見つけるために悩み続けた文学者の家で、自分なりに解釈した理想に出会ってください。

通仁(トンイン)市場
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台本

近代韓国の激動の歴史が残る、通仁(トンイン)市場 通仁洞(トンインドン)に位置する通仁市場のはじまりは、植民地時代である1941年、周辺に住んでいた日本人向けに開設された市場だったと言われています。 日本人向けの市場が出来てから4年後の、1945年。日本による植民地支配から解放されたのも束の間、今度は韓国戦争が勃発します。3年もの間、爆撃と戦闘が続いた地は焦土と化し、1950年代のソウルはまさに阿鼻叫喚を極めていました。しかし、景福宮(キョンボックン)や当時の中央庁などの大きな建物があったここ鐘路(チョンノ)一帯には、奇跡的に民家が一部残されていました。 民家が一部残っていたこの地には、戦争を終えて故郷に帰ってきた人、反対に、軍事境界線ができて北朝鮮側の故郷に戻れなくなってしまった人、はたまた、戦争の混乱下で生き別れてしまった家族を探すためにソウルに留まった人々など、多くの人々が暮らすようになります。人が集まれば、何かを売り買いする場所が必要となり、それがこの路地に自然と集まったことで「通仁市場」へと発展したのです。 当時は食材をはじめ、生活用品なども多く売られていましたが、何よりも「便り」を伝えあう人々で賑わったそうです。戦争で生き別れてしまった家族の消息、北朝鮮に残してきた家族の消息など、市場を行き来する多くの人々が、故郷を思い出させる食べ物を前に、便りを伝え合ったといいます。 景福宮の隣にあり、近くに青瓦台も位置するこの場所は、その後、開発制限区域となりました。時が経つにつれ、いつしか町から一人二人と去っていき、市場にも空き店舗が増えていったといいます。市場が寂れていくのを感じ、ここを守り抜きたいと思った商人たちは、再び賑わう市場を蘇らせるため、アイディアを出し合いました。そこで、市場が朝鮮時代の王宮・景福宮の隣にあるという特徴を活かし、朝鮮時代の貨幣・葉銭(ヨプチョン)で市場グルメを楽しめるシステムをつくったのです。 通仁市場の中間地点にある「お弁当カフェ」に行くと、現金を葉銭とお弁当のトレーに交換することができます。トレーを持って市場を歩き回り、名物の油トッポッキ、甘辛チキンのタッカンジョン、キムパプ、チヂミなど、お好みの市場グルメをトレーいっぱいに載せれば、オリジナルのお弁当の完成です。グルメも存分に楽しんで、朝鮮時代の葉銭も体験できる、文化と歴史が共存するこの通仁市場で、思い思いの時間をお過ごし下さい。

景福宮(キョンボックン)
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台本

ソウル市鐘路(チョンロ)区に位置する景福宮(キョンボックン)は、朝鮮を建国した太祖(テジョ)李成桂(イ・ソンゲ)が、現在のソウルである漢陽(ハニャン)への遷都を決定して建てた、朝鮮王朝初の宮殿です。韓国では、王が暮らす宮殿のなかでも最高位のものを「法の宮」と書いて「法宮」と呼びますが、ここ景福宮は五大古宮の中でも抜きん出た規模と建築美を誇る、朝鮮王朝一の法宮です。景福宮という名は、太祖・李成桂の臣下として大きな功を立てた鄭道伝(チョン・ドジョン)が命名したもので「新しい王朝にたくさんの福がもたらされ、繁栄しゆく」という意味が込められています。 景福宮は朝鮮を代表する正宮なだけに、完成までに多くの時間が費やされました。当初は必要な建物だけを建築して使用していましたが、後に増築、修理を重ね、法宮の姿として完成するまでに30年余りの時間がかかりました。 そんな景福宮ですが、韓国最後の王朝となった朝鮮王朝と同様に、数々の試練を受けてきました。1592年には文禄・慶長の役によりほとんどの殿閣が焼失する被害を受けた上、その後300年にも渡って放置されます。1865年になりやっと、第26代王・高宗(コジョン)の父である興宣大院君(フンソンテウォングン)によって再建されました。しかしその後、高宗の王妃であった明成(ミョンソン)王妃が日本により殺害されたことを受け、高宗はロシア公使館へ避難することになり、景福宮は一時期、主(あるじ)を失った空虚の宮殿となったこともありました。大韓帝国が滅び、植民地支配がはじまると、日本は正門である光化門(クァンファムン)を別の場所に移動した上、景福宮内の多くの殿閣を破壊、撤去します。また、巨大な朝鮮総督府の建物を建て、朝鮮王朝の象徴である景福宮が見えないようにもしました。これらの過程で、景福宮は多くの建物が既存の姿を失ってしまいましたが、積極的な復元事業により、堂々たる宮殿の威厳を今なお感じることができます。 景福宮は、正門・光化門から、王の寝殿である康寧殿(カンニョンジョン)、そして王妃の寝殿である交泰殿(キョテジョン)まで、一直線を成しています。光化門と、正殿・勤政殿(クンジョンジョン)をつなぐ一直線上の道は、王が通る道として「御道(オド)」と呼ばれ、幾何的秩序を基に対称になるよう建築されました。しかし、中心部を除く建築物は非対称に配置されており、王の威厳と秩序だけでなく、変化と統一の美しさをもあわせもっています。 朝鮮の歴史と美しさが今なお宿る景福宮を隅々まで見ることで、格式高い朝鮮王室の文化を感じてみてはいかがでしょうか。宮殿を守った守門将(スムンジャン)の交代儀式や、宴会場だった慶会楼(キョンフェル)の特別観覧も行っていますので、あわせて観覧することをおすすめします。

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