乙支路スケトウダラの干物屋通り
ソウル特別市チュン区ウルチロ129 (3号線「ウルチロサムガ駅」)
4つの視点で見るこの場所
KORLENS キュレーション「ウルチロサムガ(乙支路3街)駅」4番出口につながる路地は、毎晩簡易テーブルでノガリ(スケトウダラの干物)をつまみにビールを飲む人たちで賑わいます。乙支路スケトウダラの干物屋
通りは1980年11月、最初のノガリビアホール乙支OBベアーから始まりました。乙支路は当時全国最大規模の印刷の街で、納期に合わせるために徹夜で勤務する印刷従事者が多く、そうし
た人たちがノガリに冷えた生ビールを飲みながら過ごしたところです。こうして同じような店が増えていき、いつのまにかスケトウダラの干物屋通りが形成されました。通りができた当時は練炭
でノガリを焼いてコチュジャンと一緒に出していましたが、現在乙支路にある多くの店はノガリだけでなく、ビアホールのようにチキン、チゲ類、天ぷら類など多様なおつまみを提供しています。
場所の紹介
位置
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韓国観光公社 オディ(Odii)による音声解説台本
朝鮮時代の氾濫警報システム、水標(スピョ)が設置された水標橋(スピョギョ) 時は1441年、朝鮮第4代王・世宗(セジョン)の時代のことです。当時の首都で現在のソウルである漢陽(ハニャン)で大水害が発生したのを受け、この橋には清渓川(チョンゲチョン)の水位を計量するための水標(スピョ)が設置されます。水標が設置されるまでは、橋の近くに牛や馬を売る「馬廛(マジョン)」という場所があることに由来し「馬廛橋(マジョンギョ)」と呼ばれていたこの橋ですが、水標の設置を機に、水標橋へと名前を変えました。 この場所に設置された水標は、世宗大王時代の著名な科学者・荘英実(チャン・ヨンシル)による発明品です。荘英実は、雨量を測る測雨器を生み出し、世界初の気象観測器具を発明した人物として有名です。人々はこの荘英実が発明した水標を見て清渓川の氾濫を予想し、被害を事前に防ぐことができました。 水標には、測量単位である尺が刻まれており、一面には10尺までが、反対の面には3尺と6尺、9尺の位置に穴が開けられ、それぞれの尺数に合わせて棒を差し込むことができるようになっています。当時の1尺はおよそ23センチメートルで、6尺が通常の水位、3尺は干ばつを、9尺は洪水を示しました。現在、当時の石造の水標橋は、東大(トンデ)入口駅に位置する奬忠壇(チャンチュンダン)公園に設置されており、水標は清凉里(チョンニャンニ)駅近くに位置する世宗大王記念館に保管されています。 このように清渓川の水位を観察していた水標橋ですが、この橋は朝鮮第19代王・粛宗(スクチョン)と、後に粛宗の正妃となる張禧嬪(チャン・ヒビン)が初めて出会った場所としても知られています。ある日、粛宗は先代の王族の祭祀を執り行った後、宮殿へと帰っていました。水標橋の近くを通り過ぎたその時、平民であった道行く女性を見て、一目ぼれしてしまいます。宮殿に帰った後も粛宗はその女性のことが忘れられず、ついに女官として宮殿に入らせました。そうして入内した張禧嬪は、粛宗からの寵愛を受け、後に正妃にまで上り詰めたのでした。
台本
三・一独立運動の歴史を名に残す、三一橋(サムイルギョ) 三一橋は2005年、清渓川(チョンゲチョン)復元の際に新たに架けられました。漢字で「三、一、橋」と書く三一橋は、朝鮮民族を挙げて行われた独立万歳運動、三・一独立運動の歴史をその名に残しています。 朝鮮は1910年、日本帝国の一方的な侵略により、植民地支配下になりました。日本による不当な弾圧がつづいていた1919年3月1日、朝鮮全国の人々は日本帝国に抵抗し、独立を要求するための万歳運動を繰り広げます。三一橋の北側に位置するタプゴル公園には、朝鮮独立の声を上げるために多くの学生や市民たちが集いました。そして、朝鮮独立の必然性と正当性を明らかにする独立宣言書を朗読した後、人々は公園前の道路を「独立、万歳!」と叫びながら、行進しました。 この道路は後に、三・一独立運動を記念するため「三、一、大きな道路」と書く三一大路(サムイルデロ)と名付けられます。この三一大路に架かる橋こそが、この三一橋です。 三一橋のすぐ上には、黒く輝く三一(サムイル)ビルがあります。この建物は、1971年に三・一独立運動を記念するために、31階で完工されました。それから約15年後、汝矣島(ヨイド)に63(ユクサム)ビルが建設されるまでは、韓国で最も高い建物としてソウルの代表的な観光スポットでした。当時はこの三一ビルと、清渓川に沿って走っていた清渓(チョンゲ)高架道路が、1970年代の韓国経済成長を象徴するシンボルだったのです。 朝鮮独立の歴史と、その後の経済成長の輝きが残るここ三一橋で、朝鮮と韓国の歴史を感じてみてください。
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