서문
경기도 광주시 남한산성면 산성리
4つの視点で見るこの場所
KORLENS キュレーション국가 사적 남한산성 서쪽에 위치한 문이다.
저녁 무렵 노을이 아름답고 서문에서 바라보는 남산타워, 롯데월드타워, 위례 신도시 등을 촬영하여 작품 사진으로 만들려는 사진작가들 많이 찾을 만큼 야경의 명소이다.
경사가 급해 물자 수송은 힘들었지만 광나루와 송파나루 방면으로 통하는 가장 빠른 길이었다.
나무로 숯을 만들던 매탄 터와 국청사가 가까이에 있다.
場所の紹介
位置
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韓国観光公社 オディ(Odii)による音声解説台本
先ほどお話ししたとおり、南漢山城は長い歴史を持っています。ただ、「南漢山城」というと、真っ先に丙子(へいし)の乱が思い浮かぶはずです。それでは丙子の乱についてご説明しましょう。 丙子の乱を理解するためには、まず当時の朝鮮と中国の関係を知る必要があります。皆さんもよくご存知の通り、1592年に始まり、7年間にわたって起きた文禄・慶長の役は、朝鮮、明、日本の運命を変えました。朝鮮はその後、明とは事大政策でその関係を保ちました。現在の考え方に基づいて、事大政策の批判をよく耳にしますが、当時の朝鮮の立場としては先進的な中国の文化を受け入れ、不必要な衝突は避けることで国を保つことができた外交手段の一つでした。その反面、日本と満州の女真に対しては、強硬策と懐柔策を交互に使い、関係を保っていました。ところがこのような対外関係が、文禄・慶長の役以降、急激に変化します。16世紀末期から明は、支配層の腐敗や反乱などによりその勢力が急速に弱まりました。さらに文禄・慶長の役のときに朝鮮へ援軍を送ったことで国力の消耗が激しくなりました。朝鮮は大変な時期に援軍を送ってくれた明に対し、事大主義を通り越し、恩人の国とまで考えるようになりました。そのような理由で明との関係はさらに盤石なものになっていきます。明の力が弱まった隙を狙い、女真族は満州を征伐して明を狙うほどまで成長しました。そして巨大な力を持つヌルハチが「後金」を建国し、明の中心である瀋陽を占領しました。これを受け、朝鮮は対外的に重要な決断を下すべき立場に立たされました。 文禄・慶長の役が終わってから王位を継いだ光海君(クァンヘグン)は、中立外交というカードを切ります。明とも後金とも、適当な距離を置き、どちらの味方もしないという外交政策です。朝鮮の支持を必要としていた明と後金の間で取ることができる、非常に適切な外交手段でした。ところが明を恩人の国とする名分に取りつかれていた官僚たちにしてみると、光海君の政策は朝鮮を恩知らずの国に陥れるものでした。光海君は結局、「仁祖反正(インジョバンジョン)」によって王位から退けられます。「反正」とは、正しい状態に反すという意味ですが、反正軍は、光海君が自分の腹違いの弟である永昌大君(ヨンチャンデグン)を殺し、継母の仁穆大妃(インモクテビ)を閉じ込めた上に、明に対する義理を果たさなかったとして、正義を立てるという名分をもってクーデターを起こしました。このような名分で王位を継いだ仁祖ですから、明に対して善隣外交を取らないわけにはいきません。朝鮮は中立外交を捨て、力強く成長を続けていた後金の存在を無視します。ですが、明は後金により次第に勢力を弱めていた時代でした。この時期、朝鮮でも大きな事件が起きます。1624年、「仁祖反正」に参加した李适(イ・グァル)が反正の論功行賞の過程で自分がないがしろにされたとし、反乱を起こします。このとき、麾下の将軍である奇益献(キ・イッコン)の裏切りにより李适(イ・グァル)が殺されると、奇益献は清に逃げ込みます。彼は清における自らの立地を固めるために、朝鮮を中傷します。朝鮮を侵略する名分が必要だった清は、ここぞとばかりに3万人の軍勢を朝鮮に送り、侵略しました。義州(ウィジュ)をはじめ、清が南下を進めると、仁祖は江華(カンファ)に避難し、呉允謙(オ・ユンギョム)、崔鳴吉(チェ・ミョンギル)を清に送って、講和を締結します。この講和により、朝鮮と清は親善関係を結ぶようになりました。これは丁卯年に起きたことから「丁卯(ていぼう)の乱」と呼ばれています。 そして10年の歳月が経ちました。1636年、朝鮮は春を迎え、清に使節団を送りました。朝鮮の使節団が清に行っていたちょうどそのとき、清のホンタイジが自らを皇帝と称し、皇帝即位の礼を行いました。講和を結んだとはいえ、明を恩人の国と考えていた朝鮮としては、清の王を皇帝として受け入れることはできませんでした。 使節団が朝鮮に帰るとき、清はホンタイジを皇帝と称する手紙を渡します。使節団は帰る前、意図的にその手紙を置いてきます。ところが朝鮮の朝廷では、この件で大変な騒ぎが起きました。清の手紙を断らずに受け取った使節団を非難したのです。清の立場からすると、とても受け入れがたいことでした。そして第二の事件が起きます。朝鮮の王妃が亡くなると、清は龍骨大(イングルダイ)の率いる弔問団を派遣しました。ところが弔問団は朝鮮の接待が疎かだということでかなり怒っている状態でした。そして龍骨大が宮殿で弔問を行うちょうどそのとき、彼の立っていたところの帳が崩れ落ちました。そのとき、後苑で訓練を行っていた軍隊を見た龍骨大は、自分たちが攻撃されると誤解し、宮殿から逃げました。王妃の弔問を誠実に行わない弔問団に怒りを覚えた儒者たちは、使臣らを処断するよう上奏します。弔問団は身の危険を感じ、急いで清に帰りました。状況がこうなると、仁祖はただちに丁卯年にあった講和を否定する旨の教旨を全国に頒布しました。ところが運悪く、その教旨が清にわたってしまいます。戦争の兆しが見えると、朝廷では誤解を解かなければならないと主張する側と、命を掛けて戦い清との関係を絶つべきだと主張する側に別れて対決構図が先鋭化しました。清と再び和睦を図るべきだと主張した側の代表的人物は、崔鳴吉(チェ・ミョンギル)です。崔鳴吉(チェ・ミョンギル)は丁卯年に講和を結んだ際に中心的な役割を果たした人物です。結局、仁祖は崔鳴吉の意見を受け入れ、清に使臣を送りました。ですが、清は「11月25日までに王子と大臣を清に送って講和を要請せよ、さもないと戦争が起きる」と伝えました。王子を送ってまで講和を要請すべきか、そして送るとしたら誰を送るべきか。決まらないうちに、指定の日が過ぎてしまいます。戦争が差し迫っていたにも関わらず、朝鮮はこれといった対策を練っていなかったのです。寒い冬に敵が侵略してくる可能性は低いだろうと、高を括っていたようです。ところが12月6日、龍骨山(ヨンゴルサン)の狼煙台に狼煙があげられました。敵が現れたという知らせです。ですが平安道(ピョンアンド)を治めていた金自点(キム・ジャジョム)は狼煙の知らせを無視し、清軍が鴨緑江(アムノッカン)を越えた後にようやく、急いで漢陽に知らせます。 清軍の素早い進軍を受け、12月13日、仁祖と大臣たちは丁卯年のときと同じく、江華島(カンファド)に避難することを決めました。ですが、国境を越えた清軍は猛スピードで南下しました。そして3日目には首都・漢陽の目前にまで迫ります。仁祖と大臣らは江華(カンファ)に行こうとしましたが、江華島までは二日はたっぷりかかり、しかも行く道はすでに清軍に塞がっている状態でした。このとき、崔鳴吉(チェ・ミョンギル)は自分が清の将軍に会って時間を稼ぐ間、南漢山城に逃げるよう提案しました。この提案を聞いて仁祖とその一行は、行き先を南漢山城に変更します。南漢山城に入った後も、大臣たちはお互い譲らず論争を繰り広げました。江華島に再び逃げるべきかという問題を巡ってです。ですが、すでに清の軍勢は南漢山城へ向かっていました。結局、江華島に行く計画は実現できず、清軍は南漢山城の前、三田渡(サムジョンド)に陣を敷きます。こうやって丙子の乱が勃発し、南漢山城での47日間の抗戦が始まりました。 それでは一緒に移動しながら丙子の乱についてもう少しお話ししましょう。西門がもうすぐです。それではもう少し移動しましょう。
台本
降伏のために扉が開かれた門、西門(ソムン) 南漢山城(ナムハン・サンソン)の西に位置する門、西門(ソムン)は、朝鮮の首都・漢陽(ハニャン)を守った城、漢陽都城(ハニャンドソン)と最も近い場所にあるため、軍事目的で使用されました。また、朝鮮第16代王・仁祖(インジョ)が47日間続いた抗戦に屈し、清の国に降伏するために城から出てきたのもここ西門です。 朝鮮後期の武官、石之珩(ソク・ジヒョン)が南漢山城における47日間の抗戦の様子を記した『南漢(ナムハン)日記』を基に、その日の様子を詳しく見てみましょう。 1637年1月30日、47日間の籠城に伴い、固く閉ざされていた西門の扉が開かれます。清の侵攻に47日間対抗し、戦ってきた仁祖ですが、激戦の末に降伏することを選びました。『南漢日記』には、その時の様子がこう記されています。「王が西門に現れ、その後ろに王太子である世子(セジャ)が従われた。文武百官は西門で胸を押さえ、悲しみに耐えきれずに声を上げて泣いた。」——。 白馬に乗った仁祖は、約50人の臣下と共に城を後にし、清の将軍・龍骨大(ヨン・ゴルテ)と共に、清が陣を敷いた三田渡(サムジョンド)へ向かいます。現在の蚕室(チャムシル)地域に位置する三田渡は、朝鮮時代、漢陽と南漢山城を結ぶ渡し場でした。 三田渡に到着すると、清は仁祖に「三跪九叩頭(さんききゅうこうとう)」という方法で降伏するよう要求します。これは、三度跪いてお辞儀をし、さらに九回頭を下げて清の皇帝・清太宗(ホンタイジ)に礼を尽くす方法です。降伏の意志表示であり、清の臣下になることを表現するこの儀式は、清の女真族を蛮族だと考えていた朝鮮にとって、大変な屈辱でした。 こうして勝利を収めた清太宗は、仁祖とその一行が漢陽(ハニャン)に帰ることができるよう、塞いでいた道を開け、一行を通します。その後、南漢山城に残った人々は、清とモンゴルの圧政により、大変な苦しみに耐えなければなりませんでした。 こうして幕を閉じた丙子の乱ですが、その後も朝鮮の屈辱は続きます。現在まで記憶に残るその事件については、「ソウル三田渡碑(サムジョンドビ)」のストーリーを通し、詳しくお聞きください。
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