목포 국가유산야행
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場所の紹介
この場所の詳しい紹介は韓国観光公社が韓国語でのみ提供しています。上のタクシーカードで、運転手に韓国語の名称と住所を見せられます。
位置
オーディオガイド
韓国観光公社 オディ(Odii)による音声解説台本
8. 木浦・京洞聖堂(キョンドン・ソンダン) 2012年に木浦市郷土遺跡第22号に指定された「京洞聖堂」(キョンドン・ソンダン)は、東洋拓殖株式会社木浦支店からとても近い所にあります。1953年に完工した「京洞聖堂」は、1966年に建物の正面が地盤沈下で崩れたため補修工事が行われ、そのとき現在のように改築されました。しかしその他の部分は創建当時のままよく保存されています。 この聖堂の初代神父は、キム・ソンファン(金盛煥)ビットリーノ神父です。1953年に韓国の教会としては初めてレジオ・マリエを導入し、「罪人の頼み、プレシディウム」を組織しました。レジオ・マリエとは、カトリック教会の承認を受けた信心団体、つまり活動グループのことで、悪の勢力に絶えず敵対する「教会の戦い」に積極的に参加するため形成された団体です。組織に入会した団員は、信者の家庭訪問や宣教活動を活発に展開したと伝えられています。
台本
木浦・近代歴史館 第1館、第2館 全羅南道木浦市儒達洞にある「木浦近代歴史館」は木浦で最も古い建物です。1897年に木浦港が開港され、1898年に木浦日本領事館が木浦に設置されたのですが、そのとき領事館として建てられたのが、今の木浦近代歴史館の建物です。2014年以前までは東洋拓殖株式会社木浦支店の建物が本館として使用されていましたが、現在は東洋拓殖株式会社木浦支店からあまり離れていない旧木浦日本領事館が本館として使用されています。建築様式は新古典主義様式で、建立当時のままよく保存されており、木浦の開港と関連し、歴史的かつ建築学的な価値が高いことが認められ、1981年国家史跡第289号に指定され管理されています。 近代歴史館2館がある場所は、日本による植民地時代には東洋拓殖株式会社が、1980年5月18日に発生した5.18民主化運動(光州事件)当時には木浦第3海域司令部憲兵隊がありました。抗争を武力で鎮圧したチョン・ドゥファン(全斗煥)新軍部勢力は、その後、5.18民主化運動(光州事件)関係者の逮捕に力を入れますが、そのとき逮捕された木浦地域の主要人物たちは、保安隊木浦分署でひどい暴力と拷問を受けて自白を強要された後、ここ憲兵隊営倉に送られたそうです。 博物館の内部には木浦の開港、近代朝鮮の歴史、日本による植民地時代の日本の野望と収奪を象徴する資料、東洋拓殖株式会社が使用していた金庫などがあり、2階も展示室として使用しています。ここではよく近代資料写真展を企画・展示しています。
台本
全南(チョンナム)日報の創刊者、李勳東(イ・フンドン)の声玉(ソンオク)記念館 木浦(モクポ)市内と青い海が見渡せる小山・儒達山(ユダルサン)のふもとには、全羅南道(チョンラナムド)出身の企業家・李勳東の業績を後世に伝える「声玉記念館」が位置しています。李勳東は、製鉄やガラスなどを扱う株式会社・朝鮮耐火(ネファ)の創設者であり、現在まで続いている地域新聞・全南日報の創刊者です。そんな彼の業績を称えるため、李勳東の米寿に合わせて、子孫らによって文化施設として建てられました。 記念館には、彼が生涯に渡って収集した近現代の書道家の作品をはじめ、韓国画や陶磁器などのたくさんの作品が展示されています。展示室では、朝鮮後期の画家・尹斗緖(ユン・ドゥソ)の山水画の扁額をはじめ、朝鮮後期の文官で学者、書画家でもあった金正喜(キム・ジョンヒ)の『隷書二曲屏(れいしょにきょくびょう)』、韓国画家である許百錬(ホ・ベクリョン)の『八曲百衲屏(はっきょくひゃくのうびょう)』や、中国南宋時代の画家である劉松年(りゅうしょうねん)の山水掛け軸など、80点余りが鑑賞できます。また、他にも粉青沙器の水差しや長頸壺、白磁燈盞台などの土器類が多く展示されており、木浦に暮らす市民らと木浦を訪れた観光客が芸術・文化に触れられる憩いの場として、現在まで広く親しまれています。 声玉記念館のすぐ近くには、李勳東庭園が位置しています。李勳東庭園は日本により植民地支配下にあった1930年代、日本人の内谷万平(うちたにまんぺい)により造られました。その後、植民地支配から解放されてからは、海南(ヘナム)地域出身の国会議員・朴祺培(パク・ギベ)が所有していました。1950年代に入って李勳東が買い取り、現在まで所有しています。 全羅道(チョンラド)・光州(クァンジュ)地域における個人所有の庭園としては最大規模で、入口の庭園、中庭、小川、後苑などからなっています。60年余りの歳月を経て庭園は少し変化しましたが、日本式の五重・七重石塔が位置しており、植えられている植物や木々なども日本の種類の方が多いと言います。但し、庭園は韓国式の「書院様式」と呼ばれる様式で造られている点が特徴です。 李勳東庭園は現在観光客の観覧はできませんが、2000年代初頭に放送された大人気韓国ドラマ『野人時代』では登場人物の家として登場しています。木浦の歴史と文化の残る声玉(ソンオク)記念館と李勳東庭園にて、浪漫あふれる時間をお過ごしください。
台本
5. 国道1、2号線起点記念碑 「国道1、2号線起点記念碑」は木浦近代歴史博物館1館に続く道の入口右側にあります。木浦は韓国初の近代的道路網である国道1号線の出発地です。1906年に着工し、1911年に開通した国道1号線は、木浦と平安北道(ピョンアンプクド)新義州(シンウィジュ)を結ぶ長さ939.1kmの道路です。木浦の儒達山(ユダルサン)郵便局の横に記念碑が立っています。 国道1号線の起点は、2012年に木浦大橋が開通したことを機に、2013年木浦大橋の終点である忠武洞高下島に変更され、長さも943.37kmに延長されました。これによって木浦市は「国道1.2号線起点」と表記されていた記念碑を「国道1、2号線起点記念碑」に訂正しました。 記念碑の後ろの方には、長い間日本領事館として使用されていた赤いレンガ造りの建物が見えます。1897年、木浦港が開港されたとき設置された建物です。その後、韓国と日本間の国際関係の変化に伴い、木浦市庁(市役所)、木浦市立図書館などとして使用されてきました。そして現在、木浦の開港に関連する歴史的かつ建築学的な高い価値が認められ、1981年国の史跡に指定されました。木浦から出発した国道と港の始発点を見てみたいなら「国道1、2号線起点記念碑」にぜひお越しください。 国道1、2号線起点変更のご案内 国道1、2号線の起点が以下のように変更されたため、ここに設置していた起点標石は、国道1、2号線出発地であったことを記念する「記念碑」という文字を刻み、永久に保全することにしました。 国道1号線起点の変更(2013年2月28日) 木浦市大義洞(テウィドン)2街(ガ)11番地→木浦市達洞(タルドン)(高下島(コハド)) 国道2号線起点の変更(2001年8月25日) 木浦市大義洞2街11番地→全羅南道(チョルラナムド)新安郡(シンアングン)長山面(チャンサンメン) 2013年5月1日 木浦市長
台本
12. 木浦・東本願寺(オゴリ(五叉路)文化センター) オゴリ(五叉路)文化センターは昔は「東本願寺」と呼ばれていました。この建物は1897年に木浦が開港されてから、最初に木浦に進出した日本の仏教寺院である東本願寺の木浦別院として建てられました。正式名称は「真宗大谷派東本願寺」です。1898年に建てられた東本願寺木浦別院は、木浦公立尋常高等学校の設立認可を受けました。木浦内で、日本人の小学校が正式に設立されたのはこれが初めてのことです。 開港場の近くにある日本領事館付近に布教所を設置しますが、1904年に現在の場所に移転します。なぜならここは、当時日本人が住んでいた開港場地域とは少し離れていますが、朝鮮人とも日本人とも接することのできる場所にあり、布教所を立てるのに適していたからです。植民地支配からの解放後は浄光寺(チョングァンサ)により管理されますかが、1957年から木浦中央教会として使用されており、寺院から教会になるという珍しい履歴を残しました。 木浦中央教会は、維新独裁時代から良心的な宗教人たちが国を憂いながらよく会合した場所で、5.18民主化運動(光州(クァンジュ)事件)が起きたときは、木浦地域の市民民主闘争委員会の指導部が随時会議を開いていました。キリスト教指導者たちはここに集まり、光州虐殺を強行したチョン・ドゥファン(全斗煥)新軍部勢力を糾弾する「血の支払いにつけはない。チョン・ドゥファン(全斗煥)は今すぐ退陣せよ」という決議文を採択し、25日以降、木浦地域の多数のプロテスタント聖職者が民主化運動に参加する契機となりました。 2007年登録文化財第340号に登録され、2010年以降はオゴリ(五叉路)文化センターに改名し、各種文化イベントや展示会を開く場所として利用されています。中庭には、ここが5.18民主化運動(光州事件)と民主化運動に関する史跡地であることを示す記念碑が建っています。
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